マルクスをはじめ、きら星のごとくの多くの革命家の理論に反駁するのは、僕には不可能に思える。スターリン批判は思いつくままに容易でも、レーニンやカウツキーへの批判となると膨大な読書量が前提となる。それはアインシュタイン級の頭脳の持ち主をもってしても不可能に思えるのだ。専門漢を除き、誰がアインシュタインとプランクの対立を仲裁できようか?
思想・主義に正解はない。思想や主義は立場によってどうにでも構成できる。(注1) なのに僕の若い頃(1960年代末)は、「理論闘争」という名の言い合いや、それが高じて「内ゲバ」なるものに多くの「優秀な」頭脳が落ち込んで行った。優秀な頭脳と云えば、オウム真理教などという怪しげな宗教にエネルギーを費やした人々もそうだ。
僕は60数年この世に生きてきて、ブランキやマルクスが生きた1800年代から1917年の革命(注2) とその挫折、そして今日2018年に至る日本の状況を思うに、これから僕のなすべきことは何なのか考え続けてきた。
「生活の幅は政治より広い」(埴谷雄高著 『幻視のなかの政治』)という言葉に勇気づけられ、僕は市民運動や政治に埋没することなしに人生を楽しむすべを身につけてきたと自負している。
「人生に意味はない、ただ『在る』だけだ」僕はそう思っている。意味はなく、ただ意味付与があるだけだ。われわれは地上の動植物同様、ただ生きることだけが求められ、そして枯れていく。正確に言えば「求められ」てすらいない。けれども僕は何かを残したいと思いながら生きている。そう思っている自分がある。それは事実だ。
このホームページの読者には「カウツキーだ、レーニンだと何を黴(かび)臭いことをぬかしておるか」と奇異の目を抱く方々がいるかも知れない。しかしそうではない。時としてガリレオやニュートン、ケプラーに想いを致すのと同様、今日の政治状況を見るとき、19世紀20世紀の社会主義の「偉人」たちの足跡を確かめて見るのも有効だと思うのだ。もちろん、20世紀の三大悪人、(と僕は思っている)、ヒトラーやスターリン、ヒロヒトもある意味忘れることはできない。
僕は政治的信条として「殺すことなかれ」の一点を最高の道徳としている。暴力革命の破綻やスターリン主義の陥穽も、ドイツ革命の敗北とナチスの台頭も、悪しき日本軍国主義も、プーチンの圧政や中近東アフリカの紛争も、あらゆる非民主主義的な国家の下で暮らす人々のうめきも、この一点に解消の糸口がある。これは一種僕の宗教的確信であるが、何的であろうとかまわない。この一点を最高の道徳とすることで、人類(人間)の精神がどれほど発展し解放されるか、その効果は大きい。
ただ、その信条を語るだけでは宗教の域を出ない。それだけでは、孔子が中国を4000年眠らせたように、キリストがヨーロッパを1500年遅らせたように、むしろ人間の創造性を封殺する役目に終わるだろう。
僕は今日の政治状況を語り分析する時、果たしてカウツキーは背教者か、そこに立ち戻って「正統派左翼」の原点を探る必要があると思うに至った。レーニンは偉大な革命家だったか、それともスターリンに先行する独裁者だったのか。彼の暴力革命とプロ独はスターリン独裁国家ロシアを結果した。マルクス・レーニンが議会主義を「いちじくの葉」と規定したことは超歴史的に正しいものだったのだろうか。カウツキーの復権、これが僕の今日的問題意識である。(以上2018.08.15)。この着想を広げていけば、必然的に僕がいままで嫌悪していたいくつかのものへの再評価に進まなければならない。(以上2018.08.16付記)
注1: ここでは商業的、意図的な括弧つき「思想」を論ずる余地はない。
注2: 1917年ロシア革命、これを革命と呼ぶべきかどうか、僕ははなはだ怪しいと思っている。ただ、マルクスも云い、ローザ・ルクセンブルクも云ったように、挫折を恐れぬ革命、敗北しようが何度でも蜂起すべき、、という革命観は尊い、ただ僕は今それに従うことは出来ない。蜂起=暴力革命は指導者(=人々)の自信のなさに他ならないと思うようになっている。それは自由のための死を礼賛するものであるが、人間はあまりにもそれで失うものを多く持ち過ぎている。
2. 民主主義とは
日本には「小選挙区制」というものがあり、国民の投票数の1/4弱の得票で3/4強の議席を占めることを許すシステムである。この国会では、国民の意思と乖離したところであらゆる問題が処理されて行く。これが民主主義社会だと喧伝されている。馬鹿も休み休み言えというところだ。
日本国憲法は「正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」と謳っているが、戦力不保持と並んで、これほどの欺瞞はないだろう。この日本国憲法前文は間接民主主義制度=議会主義を規定したものだが、これに支えられて現代日本の民主主義があるらしい。しかし日本の国会の現状は民主主義を冒涜し、間接民主主義の地位を最低にし、国民道徳・国家規範の溶解の元凶となっている。その結果が現代競争社会であり格差社会であり、日本の政治の現状である。
大統領選挙は最悪の「小選挙区制度」であり、あらゆる首長選挙もそうである。ここに似非民主主義の根源がある。最高の政治形態が最高の社会を造る、アメリカインディアンの「涙の行進」に支えられたとはいえ、かつてのアメリカは世界最古の民主主義国家として憧憬の的であった。
それが今ではどうだ。ベトナムでは日米戦争に匹敵するほどの爆弾を投下しても敗北し、中近東の争いに油を注ぎ、他国家消滅の権限(!)を有し、America firstという愛国主義に陥り、世界の笑い者になっている。「報道の自由度」では米国は台湾・韓国・ルーマニア以下(45位)であり、これがかつての「民主主義の先進国」の姿である。(ちなみに日本はボスニアヘルツゴビナ以下の67位)。
ほとんどの現存する選挙制度が民主主義の政治形態であることはかつての意義を失い、特に小選挙区制度はいまや非民主主義・似非民主主義の代名詞である。
小選挙区制度の本質、それは文字通り「ただ一名の定員」にある。定員制度は、その定員が一名であるか複数であるかに関わりなく、すべて旧支配思想の尾ひれ(母斑)である。人類は真の民主主義、すなわち無定員制の選挙制度を打ち立てなければならない。それは間接民主主義と直接民主主義の矛盾を止揚するものであり、理想的選挙制度である。
それは制度改革運動であり必ずしも政治運動ではない。政治運動は別の視点から行われるべきであり、その際前項「カウツキーは背教者か?」と敢えてセンセーショナルかつ文学的に述べた視点も参考にすべきと思う。
僕は民主主義的社会を望む。国民の意思と離れたところで政治家や官僚が虚偽を行うのを望まない。低投票率と死票に拠って立つ「見せかけの多数派」による独裁的政治を望まない。また、財界やマスコミの評価に右往左往し国民の多数に足場を置こうとしない、かつての民主党政権のようなものも望まない。また、国民のためにあるべき政治の姿を提示し実行できない野党に失望している。僕は公正な立候補権と公正な選挙制度が担保され、その上に立つ民主的政権を望む。
僕は現下世界中で生起しているあらゆる紛争や虐殺・暗殺・弾圧を憂う。また、それらの危機に便乗し、軍事力に頼ろうとする現政権を憂う。一部軍需産業、ひいては日本経済界の一部執行部と結託することによって自らの政治的信条をまっとうしようとする政権を憂う。
そのことは米国・トランプ政権やロシア・プーチン政権にも言える。わが政権を含め、これら政権がパレスチナ・イスラエル・シリア・イラン・北朝鮮など世界の危機をもてあそぶ姿は狂気である。
また、今日、民主主義が極めて形骸化しつつある中、その制度・体制そのものへの認識を深めその変革に目を向ける政党の登場を望む。
僕は小選挙区制度に反対し、理想的な選挙制度はいかにあるべきかを考える人々との連携をめざしたい。そのために、僕の主張とともに人々の発言を広く集約し、このホームページ及び掲示板に掲載し、関心ある人々の閲覧に供したい。そうすることにより少しでも選挙制度改革の方向性や機運の醸成に寄与したい。
では次に僕の言葉の定義をしておきます。
1.民主主義
政治体制としての民主主義は、民意に基づき国・地域の政治が執り行われる政治形態であり、民意は歴史的に考えうる限り公正なる選挙制度・選挙運動をもとに選ばれた議員で構成される議会を通じて具現されるべきものと私は考える。
2.公正な選挙制度
民意が選挙を通じて議会の構成に正当に反映する、そのような選挙制度である。基本的に死票はゼロとすべきである。小選挙区制度はこれに真っ向から反する制度であるから廃止されるべきである。私は小選挙区制度に反対し、その廃止を求め、理想的選挙制度を望む。現代版「普選運動」が必要であると考える。
3.小選挙区制度
小選挙区制度とは原則定員1名の選挙区制度である。膨大な死票が発生するので、国民の意思と議席に大きな乖離が生ずる場合が多い。また小選挙区制度は当該選挙区での「比較多数派」が議席を独占するので、多様な意思を持つ少数派の意思は議席に反映できない。
以下、現時点(2018年3月)における政党を各々、A(自民党、284)、B(公明党、29) 、C(立憲民主党、57)、 D(希望の党、50)、 E(共産党、12)、 F(維新、11) 、G(社民党、2) 、H(無所属、22)、、つまりAからHまでと略称する。(党名の後の数字は衆議院における現有議席である、議席は2018.3.1現在)。
国民の利害に多大な影響を与える政策において、国民の過半数の意思を代弁するのが仮にC以下HあるいはGまでであり、A・Bが国民の意思の過半数に満たない少数派であるとしても、当該政策は独占的議席を有するA・B連立政権の意思で左右できることになる。
小選挙区制度は原理的に民意と現実政策の乖離を来たす場合が多く、「真の多数派」の政策・意思を「小数派」により踏みにじることが可能な制度である。
一般的に多様な意思を代表する小政党への票は死票となり議席を得られず、そのことがさらに小政党への厭投票行動を生む。その結果、各々異なる小政党は、それら総体なら多数派を形成することが可能であっても、小選挙区制度の下では、個々の小政党は正当な議席を有する機会が閉ざされ、一般的には、少政党にとっては議席減少は負のスパイラル(螺旋)として進行する。
分かりやすい例を上げれば、改憲問題の他に、東日本福島原発大震災後の国会での一幕である。原発の危険性への認識が高まっているまさにその時、民主党(当時政権党)とA党・B党(当時野党)の「多数」で通称「ヨルダン原発協定」が通過した(2011年3月31日、参議院)。これなどは議会多数派=(実際は世論での小数派)が議会少数派(=世論での多数派)の原発反対の意思を無視した例である。(原発反対が実際その時の国民の「多数」の意思であったかどうかの議論・検証はここではしない)。
また、震災の翌年(2012年)の民主党の「投げ出し解散」で実施された総選挙での反原発派の壊滅的敗北、国民世論の批判を無視しての「特定秘密法」の強行成立等々は、小選挙区制度は国民の真の多数派が少数派によって屈服させられる非民主主義的制度であることを端的にあらわしたものと言える。
(このことを専門的に指摘したものとして、下に2014年末の総選挙についての『デジタル毎日スペシャル』のコメント(赤字)を引用した)。
僕たちは多数派である。多数の意思が議席に反映しない制度、その上に立つ政権は「非合法政権」である。諸悪の根源の小選挙区制度は廃止すべきである。
4.理想的選挙制度
僕が理念としてめざすものは完全に死票のない選挙制度である。またそれは、高額な供託金や政治活動への司法・司法行政による恣意的な規制・介入や表現の自由への規制などとは無縁の、公正な選挙が実施される状態を前提とする。すなわち理想的選挙制度をめざす運動は、真に民主主義的な社会をめざす運動である。
この選挙制度の実現のためには、国民の間に間接民主主義につきものであった「定員」の概念から解放されなければならない。通常、王様は一人である。「定員」は旧支配体制の尾ひれである。
ここでのべる「定員なき選挙制度」は直接民主主義と間接民主主義の限界を止揚する回答である。北欧で一般的な比例選挙制度ですら、その名簿の決定過程でいかにして「民主主義」が担保されうるか?また死票は?足きりは?と考えてくると、ドイツ・北欧における「先進的」選挙制度にも欠陥がある。「足きり」といわれる仕組みはロシアにもみられる。これは非常に危険な制度である。
僕が考える理想的選挙制度は、定員制を廃止し、立候補したすべての候補者を議員とするものである。ITの発達した今日、投開票や議事進行においてそれは技術的にも可能である。議員には得票に応じた議決権(ポイント)が与えられる。このポイントは選挙区の環境(面積と人口の割合、過疎度)に応じて修正の余地を残す。
ただし、今日の社会では政治家が職業としてあり、その政治家になるための条件に制約があるかぎり、この理想選挙制度はただちに実現はできない。資金や既存の著名度によって、むしろ民意の反映は歪められるかもしれない。
僕は小選挙区制度や中選挙区制度に明確に反対するが、大選挙区制度・比例選挙区制度は理想的選挙制度実現までの過渡的制度として容認する。ただし、大選挙区や比例選挙区制度であっても、足切り制度など、非民主主義的・専制的制度には反対していく。また、政治的民主主義はそれ単独で実現可能ではなく、広く社会的=経済的民主主義の実現を伴うものであることも視野に入れておかなければならない。
『デジタル毎日スペシャル』
望ましい選挙制度とは何か
【基礎知識】小選挙区制のどこが問題なのか
得票率48%で76%の議席を得る2014年末の総選挙は、自民党の圧勝劇で幕を閉じた。「大義なき解散」「争点なき選挙」熱狂なき大勝」
3.僕の憲法第9条への立場
「日本国憲法 第2章 戦争の放棄」よりの引用(2018.04.17)
(引用はじめ)
〔戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認〕
第9条日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
(引用終わり)
憲法第九条第一項と第二項の存在は、第二次世界大戦における日本国の敗北という歴史的現実に規定されて定められたものと言える。それは米国が日本国民にとって「解放軍」に見えた時代の産物であり、すなわち第一項の中の「希求し」と表現されているものの内実は「正義と秩序の代理人たる連合軍(米国、国連)を信頼し」と読むべきものである。
ところがわが日本にとって米国(連合国、国連)への信頼はベトナム戦争や米国の中東への干渉・介入で終わった。米国が信頼できないとすればいかにすべきか、再び日本は日本として独自の存立を模索するべき時が来たと言える。
存立を規定するには主権を論じなければならない。主権はいまや自然権としての国民主権のことに他ならないが、主権が国民にあると規定したところで、それだけで国家が成り立つわけではない。領土と国民と排他的実力を国家は保持しなければならない。主権の一部たる軍備である。
ただし、かつての過ちを繰り返させないために、軍隊は完全なる文民統制に服させなければならない。すなわち国会の統制に服させなければならない。ところが、国会が翼賛国会になったのでは日本は再びかつての道をたどりかねない。それを防ぐにはひとえに国会が限りなく民主主義的なものであり続けなければならない。選挙制度の改革が急がれる。
もちろん、国の存立は軍備だけではない。外交及び経済で世界と共同して行く道を探らなければならない。アジアにも中東にもアフリカにも東欧にもそして南米にもわが日本の姿が尊敬に値するものと印象付ける努力が日常的に求められる。内政も世界に誇れるものでなければならない。国民の叡智を結集し、世界に誇れる高度な民主主義社会を築くこと、それが最大の「国防」である。
憲法についてはワイマール憲法のもとでナチスが台頭した歴史の教訓に学び、「理想的憲法とは」についても深めなければならない。
4. スローガン
工事中
5. コラムから
2018.08.14 革命
いま日本の選挙制度はいくつかの意味で間違っている。
第一に小選挙区制度で死票が大量に発生すること。第二には、多額の供託金やさまざまな選挙活動・政治活動への恣意的規制があること。第三には、選挙および選挙活動が、多かれ少なかれ「買収」されたものであること。すなわち、大企業や国策特殊法人に「飼われている」人間や、高級官僚およびこれに物質的精神的、直接的間接的に「天下り」「買収」された人間たちによる選挙運動が、(日米経済・軍事・政治同盟、すなわち日米反動シンジケートと結託したマスコミも動員して)、人々の利益に反した選挙運動や投票行動をするであろうこと。
どんなに形式的・実質的に理想的な選挙制度ができようと、(現状では理想とはまったくかけ離れていることはいうまでもないことだが)、仮に理想的な選挙制度の下であろうと、(第一第二の点が改善されようと)、こうした大企業、特殊法人、官僚が温存されている限りは、選挙は嘘と欺瞞に満ちたセレモニーに過ぎないこと、これが言える。
労働条件も福祉も外交も、すべて大企業、特殊法人、官僚、日米反動シンジケート、マスコミという存在が改革を阻んでいる。
故にエンゲルスは述べている。「国家とは・・・矛盾にみち自浄作用なく(嘘と居直りなしには)和解できない対立物のがらくた社会において、これらの対立物が「無用な」闘争によって自滅しないように、この社会から出てこの社会の上に立ち「秩序」の枠を保つべき権力が必要となった、それが国家である」(『家族、私有財産および国家の起源』1884年)。
まさに今の国会、僕らが毎日観ている政治ショー、その姿がこれである。
どうすべきか。レーニンは故に暴力革命とプロレタリア独裁を叫んだ。だが、僕らにはそれはできない。また新たな独裁を生むだけだからだ。
ではどうすべきか、僕らにできることは、選挙制度を糺(ただ)し、選挙活動・政治活動の環境を「整備」し、大企業、特殊法人、官僚、マスコミの悪辣さを糾弾していく民主主義的革命、議会を通じての民主主義的革命、議会そのものを革命していく革命、それしかなかろう。
2018.08.18 ロシア革命はなぜ批判されたか
ロシア革命は工業プロレタリアートが人口の圧倒的少数という現実の下、「武装蜂起=プロ独」路線で決行された。ドイツ社会主義者は当初はこれを歓迎したがレーニンプロ独の実際を知るに及び、これに反対した。詳しく文献に当っていないがローザルクセンブルクでさえ、これを批判した。
(当時ロシアの人口は9000万人弱、一説によると工業プロレタリアートは5%にも満たなかった)。
ヒルファーデングはレーニン革命が挫折又は変質するのを予見していた。カウツキーはこれに明確に反対した。その後のスターリン主義はその挫折変質の必然的帰結だった。彼ら批判者は言う、マルクス主義社会主義革命は多数者の革命でなければならない。完全な民主主義の先にしか社会主義はありえないと。
僕はこの指摘をいまさらであるが深く受け止めている。
ローザルクセンブルグは、1918年末のドイツレーテによる武装蜂起がボリシェビキの模倣であるにも関わらず、これに参加してノスケ一派に虐殺されている。徹底した正しい戦術というものがいかに難しいか知るのである。
2018.08.21 『左翼小児病』
レーニン『左翼小児病』を読んでいる。(共産主義における「左翼小児病」、大月書店刊1953年2月15日初訳、1956年2月9日新訳、1971年新訳第二七刷)。
この小冊子の発行日に注目してほしい(大月書店1953年2月15日初訳)。これはスターリンが死亡する1か月前に発行されている。マルクス・レーニン主義とともにスターリン主義の絶頂期に出版されたと考えられる。したがって、この小冊子巻末の解説は今ではまことに「嫌らしい」。
レーニンはこの小冊子で、当時(1920年)のドイツやオランダの共産主義「左派」を「小児病」と批判して、自らの路線の正しさを強調している。が、それはどうも「目くそ鼻糞」「五十歩百歩」の感をぬぐえない。
曰く(左派は)「一切の妥協を許さない」「堕落した指導部を追い出せ」「議会主義粉砕」と叫ぶが、私(レーニン)の戦略戦術は「時として妥協し、時として指導部を指導し、議会も尊重し(憲法制定議会でのエスエルとの妥協例)」云々、その「正しさは偉大な十月大革命が証明している」という調子だ。これは単なるアジ演説であり、僕にはありがたがって読む価値のある本ではない。
しかしそこに教訓がある。
およそ路線というものは権力闘争そのものであるから、誰でも正当化するものである。妥協すべきか妥協を排すべきか、当然その時々の彼我の関係による。一方が他方を「小児病」と非難することに論理的根拠はない。つまり妥協がいいか悪いかは理論の対象にはならない。文中のレーニンの言葉を借りれば(人間が歩みだす時)、「右足からいくか左足からいくか」それはその時の人間の無意識の判断であり、理論の対象ではないということだ。
対立陣営と妥協すべきか否かを論争する前に、議会なら、その議会が民主主義にどれだけ近づいているか、反しているかを問題にし、それをより民主主義的なものにする努力・キャンペーンこそが(共産主義者にとって)重要であると僕なら思う。
2018.08.23 『続左翼小児病』
つまり、「左翼」共産主義者たちは、議会の議席を維持することに汲々としている社民主義の「指導者」を非難し、そのような「指導者」に従うのでなく、堂々とレーテ(ロシア・ソビエトのドイツ版)の組織固めを優先しよう、議会主義反対と叫んでいる訳だが、レーニンは、それは万能ではなく、時として彼らとの妥協も必要であると説いているわけだ。どちらも正しく、どちらも間違っている。
「左翼」共産主義者は社民主義者(議会を通じての平和革命論者=実は永久に「革命」しない人たち)を「議会主義者」として非難し、議会主義反対の名において、議会制民主主義そのものに反対し、その結果、本来の理想とすべき議会制民主主義を深める視点を欠落させたことになる。このことはレーニンも同じで、妥協する場合があるとかないの問題ではなかったのである。
いままで、左派も右派も議会という手法をとるかとらないかの議論に埋没し、本来の議会のあり方を深めて来なかった。
2018.08.29 腐敗
現代社会の、政治、経済、哲学、科学などを見ると、まず明らかに政治は腐敗している。先進国での経済は、その内部の格差や後進国での遅れはあるものの、歴史上かつてないほど繁栄し、発展している。しかし政治の腐敗は経済の、見えない部分での腐敗を反映しているのではないか。批判好きの多くの評論家は現代社会が病んでいることを好んで語っている。きっと、かなりの部分、確かに経済も腐敗しているだろう。立法、司法、行政は明らかに腐敗している。哲学は死んでいる。科学は、基礎研究の部分でかなり進歩しているが、装置産業のようであるし、研究予算の分捕り合戦に眼目が置かれているようにも思える。
現代社会は胡散臭いもので満ちている。
メディア界も腐敗している。産業が高度に発達し、産業界はメディアを通して大量宣伝を行う。経済産業界の腐敗が広告産業の腐敗を生み、広告業界の腐敗がメディア制作スタッフの腐敗を生む。NHKの連続ドラマなどは小中学校の学芸会レベルのクサイ演技が平気で放映される。制作スタッフ・演出家の貧困である。「バラエティ」などは論評するに及ばない。欧米はどうか知らないが、これらは「日本の恥」そのものだ。文化が腐敗している。スポーツも腐敗している。
かつては「ジャーナリズム」と呼ばれて志ある若者が憧れた業界があった。僕もその一人だった。だがいまや「よく恥ずかしくもなく・・・」といったしろものである。政治団体を標榜する暴力団があるように、ジャーナリズムを標榜するメディア(媒体)=悪質広告代理店業界が跋扈している。
インターネットは便利なので利用するが、これは広告が必ずついてくる。地図や路線の時刻表が必要で印刷しようとすれば、かならずどぎつい広告がもれなく印刷されるようになっている。その他調べものでインターネットは便利であるが、中には一行おきに(!)コマーシャルが挿入されているようなものが多く、見ずらい。少し前は(失礼ながら)ベニヤとブリキでできた不動産屋の看板が街の景観を壊していたが、今やありとあらゆる企業広告がネットを見るものをして砂を噛むような思いをさせる。スマートフォンしかり、無用なコマーシャルが蛆のように湧いて来るのだ。故に当ホームページには広告は一切ない。
胡散臭い物、腐敗したものに満ちているこの世の中、一体どこに「健全なもの」があるだろうか。庶民の生活の中にそれがわずかに残っていると思いたい。